バリに半年住んでいた時の話 その4
ガブリーとパッ・グスティのレッスンが終わった後、早速2人に相談してみた。
「実はガムランを教えてくれる先生を探してます。外国人にレッスンをつけてくれる先生はいますか?」
ガブリーはパッ・グスティしか知らないと言っていた。
パッ・グスティに聞かれた。
「ガムランの何が勉強したいんだ?」
「ゴン・クビャールに興味を持ってここへ来ました。何でも勉強したいけれど、出来ればガンサ(音板を持つ鉄琴のような楽器)から教われると嬉しいなと思っています」
「うーん、ゴン・クビャールか…楽器を貸してくれるところがあれば私も教えられるけど」
「私もここに来たばかりで、貸してくれるところはわかりません」
「このリンディックだったら教えられるけれど」
「ありがとうございます、私も楽器を借りられるかワヤンに聞いておきます」
楽器を借りられるかというのも気になっていたが、レッスン料金の相場も知りたかった。
ガブリーに、レッスン料金がいくらくらいなのか聞いてみた。
「1レッスン(2時間)で大体10万ルピア払ってるよ」
当時は1円=70〜80ルピアだった。
10万ルピアというと、1300円くらいか。
日本円で言うと安く感じるが、1食100円くらいで生活をしていこうと考えているバイトの出来ない大学生としては大金に感じなくもない金額だった。
この宿も、実は下宿と言うよりはいわゆるゲストハウス的な施設なので、通常の学生の下宿よりは値段が高かった。
とりあえず何も分からないので、パッ・グスティ以外の先生の相場というものも知ってみたかった。
タイミング良く、ガブリーの知り合いのメアリーというアメリカ人が遊びに来ていた。
メアリーは何を勉強しに来たのか聞いてみると、やはり伝統楽器の勉強に来たという。
いろいろ学んでみたいと思っているが、今はガンサを習っているようだ。
ありがたい、丁度良い。
自己紹介の後で聞いてみた。
「メアリーはレッスンの費用はどれくらいなの?」
「私は先生の家に住み込みで、家賃も込みで払っているからレッスンいくら、という考え方は出来ないかも知れない…。ただ、ここウブドは外国人に対するレッスン料の相場は大体10万ルピアくらいだと思うよ」
「そうなんだね!ありがとう。メアリーの先生はどんな人なの?」
「勝手に部屋に入って来ようとする事もあるけど、音楽的には素晴らしい先生だよ。どんな楽器も自由自在に操れるの!」
「それはすごいね。ここから通えたら良かったんだけどなあ」
メアリーはここでバイクの免許を買っており、住処はバイクで20分ほど南に下った所にあった。
バリに年単位の長期で滞在する外国人は、バイクの免許を買ってバイクも購入して生活している事が多い。
特に楽器や踊りの勉強をしに来る人は、それらの本番である儀礼に参加したり見に行ったりするのに、バイクがあった方が圧倒的に行動範囲が広がるのだ。
次のガブリーのレッスンの時に、パッ・グスティにレッスンの開始についてお願いしてみようと思った。
その前にワヤンに楽器の使用の許可を貰わなければ!
バリに半年住んでいた時の話 その3
楽器と舞踊を習いに来た我々は、ともかく先生を探さねばならない。
どうしたら良いか分からないが、とりあえずガブリーのレッスンは覗かせてもらっていた。
仲間たちは踊りに興味があって来た子たちなので、ガブリーのレッスンは私1人で見ている事も多くなった。
ゴン・クビャールがやりたくて来たものの、リンディックもバリっぽくて良い感じだ。
ウブドのチャンプアンの田んぼの雰囲気によく合っている。
一面緑の田んぼがあって、時々通りかかるのんびり歩く人々がいて、カエルやアヒルの声もして、田んぼを吹き抜ける風がある。
とても良い感じだ。
演奏の仕方も見ていると何となく分かって来た。
両手でハモりながら旋律を叩く時と、右手が旋律で左手がリズムを刻むパターン、そしてその逆もあるようだった。
音階は5音。バリでよく使われている、「ぺログ」という音階のようだ。
西洋の音名に当てはめることは出来ないが、自分なりの音程の捉え方でいくと
ミ ファ# ラ シ ド#
に近い音が2オクターブ分並んでいるようだ。
音数がシンプルな分、リズム遊びが面白い。
とりあえず吸収出来ることはしておこう、面白いし。
という気持ちで、ガブリーがやっている曲を頭の中で覚えた。
曲のタイトルは今でも正直よく分からない。
バリの伝統音楽には楽譜がない。
口頭伝承というやつだ。
ドン、デン、ドゥン、ダン、ディン
という感じで歌いながら覚える。
タイトルも会話の中では言っていたのかも知れないが、聞き漏らしていたらアウトだ。
iphoneが当時あったらめちゃめちゃ便利だっただろうな、と思う。
恐らく私が覚えたのは「ジョゲ」という曲だと思われる。
後でyoutubeで探してみようと思う。便利な時代になった。。
ガブリーのレッスンを熱心に覗いていたせいか、生徒獲得のチャンスと思われたのか、パッ・グスティに
「マウ マイン?」(やってみたいか?)
と声を掛けられた。
辿々しくではあるが、叩くとちゃんと音は出た。
音板は竹、バチ(パングルという)は打つところがゴム、持ち手は音板と同じくよくしなる竹で出来ていた。
パッ・グスティはしなりや弾みを上手くコントロールして上手く音を出しているようだ。
同じようには出来ないが、とりあえず音が出せた事に満足してガブリーとパッ・グスティに
レッスン中に叩かせてもらったお礼を言って後ろに下がった。
レッスンが終わってもし時間があるようなら、パッ・グスティやガブリーに先生の探し方について聞いてみようと思った。
バリに半年住んでいた時の話 その2
目が覚めて、またワヤンの元へ向かう。
「スラマッパギ」
「スラマッパギ」
まだ簡単な挨拶だけだ。
1人だけ早く目が覚めてしまっていたので、少しワヤンの元で粘ってみた。
会話はないが、テレビがついておりインドネシア語が流れている。
早すぎて全く聞き取れない。
「スダマンディ?」(沐浴は済ませたかい?)
ワヤンが話しかけて来た。
スダ、は「〜は済んだか?」という口語だ。
食事は済んだ、とか○○へ行ってみたか、とかもうあれを見たか?とか沐浴は済ませたか?
みたいな事がイギリス人にとっての天気の挨拶ばりに出て来るのがバリの世間話のルーティンの一つだ。
私は何で朝なのに沐浴なのかな、と思い
「ブルム」(まだだよ)
と答えたら笑われた。
後で聞いたところによると、バリ人は綺麗好きでまず朝起きたら身を清め、また夕方帰って来たらそこでも身を清めるのだという。
普通の家庭では当時お湯は出なかったから、水浴びだ。
直に友人たちも起きて来て、前日のパンを食べてその日の計画を練った。
ガブリーに会うと、これから彼女のバリ人のお師匠さんが宿に来て、宿の広場スペースで楽器を教えてもらうのだという。
私は興味があったので、ガブリーの練習を見学させてもらう事にした。
友人たちも一緒に見ている事になった。
やがて現れたガブリーの師匠のバリ人は、ジミヘンみたいなロン毛のおじいちゃんだった。
名前はパ・グスティというそうだ。
インドネシアで、目上の男性の名前を呼ぶ時は「Bapak」「Pak」という敬称をつけるのが自然だ。英語でいう「ミスター」みたいな物だと解釈している。
ちなみに、女性は「Ibu」「Bu」とつける。
ガブリーとお師匠さんの演奏する楽器は「リンディック」という竹の木琴のようなガムランだった。
我々が日本で少しかじって来たガムランは「ゴン・クビャール」というモダンなタイプの青銅を使ったガッツリとした大編成の重たい楽器で、ガブリーたちがやっているリンディックは持ち運びも簡単に出来そうな可愛い音色の竹ガムランだった。
ゴン・クビャールの楽器の音板は叩いたら逆の手でミュートして回らないと音が濁って仕方がないが、このリンディックは竹なので音板を叩いても音が伸びない分、両手にバチを持って叩く事が可能なようだった。
バリのビーチリゾートにあるホテルで現地の人が叩いているのは、このリンディックである事が多いように思う。2人でもハーモニーが作れて、ロビーのような響く環境であっても耳障りがよく優しい、それでいて異国情緒のある音で丁度良いのだと思う。
曲名は聞かなかったが、恐らく「ジョゲ」というものだったと思う。
ガブリーのレッスンだったから飛び入り参加はしてはいけないと心得ていたので、本当に大人しく、距離をとって見学をしていたがとてもウズウズした。
2時間ほど練習をした後に、ガブリーとパッ・グスティは明日も10時頃に練習を始めると言って、2人でランチへ出かけて行った。
ガブリーはどうやってお師匠さんを見つけたのだろう?
我々も現地の音楽や舞踊を教わりに来たのに、一体どうしたら良いのだろうか?
どうしたら良いか分からないままに気持ちだけが焦るのだった。
バリに半年住んでいた時の話 その1
とりあえずバリに着いて、半年過ごす為の第一歩は記せた?と思うので、プロローグ という文字は晴れて抜かしてしまおうと思います。万歳。
バリの朝、友人たちと合流して管理人室のワヤンの元へと向かう。
「スラマッパギ、ワヤン」(おはよう、ワヤン)
「スラマッパギー」(おはよう)
インドネシア語の挨拶は、「スラマッ〜」という。
朝なら「パギ」で昼なら「シアン」、15時以降(夕方)は「ソレ」で陽が沈むと「マラム」だ。
「スラマッパギ」(おはよう)
「スラマッシアン」(こんにちは)
「スラマッソレ」(こんにちは)
「スラマッマラム」(こんばんは)
になる。
とりあえず「スラマッ」を文頭につければ、何となく挨拶っぽくなるので覚えておくと便利である。
ワヤンと我々は同年代のように見えるが、警戒されているのかあまり口数が多くないのかそんなに会話は弾まない。我々も現地のインドネシア語に慣れておらずまだ流暢に話せない。
ワヤンは住み込みなので、管理人室には台所もあればテレビもあり、シャワー室や寝室もあった。全てがその部屋で完結するようであった。
とにかく我々は食料の買い出しだ。
朝の9時、街はもう皆起き出しており観光客も出歩いている時間だ。
南国は昼間が暑いので、人々は早朝から動いているのだ。
2日連続でパンだと寂しいので、ワルン(食堂)を探して食べようという事になった。
友人のミチコが持って来てくれた地球の歩き方に、「ローカル色が強いが観光客でもウェルカムな食堂」というお店が紹介されていたので、片道20分ほどかけて歩いて行く事になった。
バリは観光地であり、開発国の人々がお金を落とすリゾートだ。
お店の値段もピンからキリで、1食2000円するようなお店もあれば100円で済むお店もある。
我々は半年間ここに暮らす。踊りや現地の楽器を習うには、月謝がかかる。
そして日本からインドネシアの留学生はアルバイトが認められていないので、1食に2000円もかけていたらすぐに破産してしまう。
ジャラン・ゴウタマにあったデワワルンは、めちゃくちゃ安くはないけれど高くもない、ローカルにも観光客にも優しいお店だ。
もしかするとローカル向けの値段も存在していたかも知れないが何とか払える額であった。
友人たちは野菜炒めとフレッシュジュース、私はナシチャンプルというのっけご飯とバリコーヒーを注文してお腹を満たした。
野菜炒めは普通に出来立てで美味しかった。
ナシチャンプルも美味しかったと思うのだが、まだ現地の味に慣れておらず良し悪しが分からなかった。バリの米は日本でよく食べられるジャポニカ米ではなく、インディカ米だ。縦長で、あっさりした感じの米だ。その米に、色んな味の具を合わせて食べられるのが嬉しかった。
一口もらったフレッシュジュースは日本で飲むどんなフレッシュジュースよりも美味しかった。最初に飲んだのはアボカドジュースだったと思う。生まれて初めて口に入れたアボカドは私はジュースだったのだが、衝撃の美味さだった。
バリコーヒーは現地の呼び方だと「コピバリ(バリのコーヒー)」になるが、特徴的だ。コップにコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぐ。練乳を入れてかき混ぜる。そのまま飲むと口の中がコーヒーの粉だらけになるので、粉が沈むのを待って飲む。
多分日本で飲んでもそんなに美味しくないと思うのだが、バリで飲むと甘ったるくてとても美味しかった。
店は外からもよく見えてオープンな雰囲気で、高い所と低い所に席があった。
欧米の常連らしき観光客が長居している姿もよく見かけた。
店員は若い男の子で、ドレッドのような髪型をしたクリクリした目の感じの良い、そして外国人慣れをしている人だった。
バリは観光地であるが、外人は目立つので結構ジロジロ見られるし、暇つぶしにめちゃくちゃ声をかけられるのだ。
適度に放っておいてもらえる感じもありがたかった。
腹が満たされると、到着連絡を家族に出来ていない事が少し心配になった。
しかしまだ海外で携帯を持つという事が普通ではなく、インターネット環境も非常に悪かったのでそれはまた後日という事になった。
デワワルンで食事をする事に成功した我々は、とりあえず昼食はパンで安く凌ぎ、夜にまた出掛けてみようという事になった。
ジャラン・ゴウタマを出てジャラン・ラヤウブドに戻りそこから更に北の我々の宿へ向かう道筋には、立派なお寺や絵画のギャラリー、ワルテル(電話屋)、王宮、市場なんかもあり大層賑わっていた。
道沿いにあるタトゥーショップで強面の兄ちゃんたちに冷やかしの声を掛けられながら、何とか宿に辿り着いたらガブリーが出かける所だった。
挨拶をしてとりあえず部屋に戻り、通った道の復習や食べた物、買った物の値段の記録付けと単語練習をして過ごした。
夜はデワワルンよりも近所にワルンを見つけ、そこでやはり野菜炒めと白飯を食べて、早めに眠りにつくことにした。
宿の周りは美しい緑の稲に囲まれていた。
カエルの声を心地よいBGMとしてその日は眠りについた。
バリに半年住んでいた時の話 プロローグ その5
マクドナルドからさらに車を北へ走らせる事30分。
マクドナルドくらいまでは非常に平坦な道を快調に飛ばしていたのに、北へ進み山を上がって行くにつれ、どんどん道は凸凹になっていった。
我々が辿り着いた街の名前は、ウブドというところだった。
スペルはUbud。
日本人は「うぶど」と発音するが、現地の人々は「ウブッ」と発音する。
ウブドは芸術の村として有名なところだ。
さくらももこ先生の世界あっちこっちめぐりを読んだことのある方がいたらご存知だと思う。
有名なガムランの楽団や舞踊団、バリ絵画、彫り物。
ウブドのすぐ近くにはチュルクという銀細工の村もある。
バリはビーチのイメージがとても強いところであるが、ウブドのメイン通りを少し外れると美しい田舎道が姿を現し、欧米の観光客からは特に愛されているようであった。
アジア人の姿はメイン通りでばかり見たが、欧米の観光客がロンリープラネットを片手に田んぼ道を歩く姿はよく目にした。
高級ホテルとして有名なアマンダリやピタマハ、イバホテルもウブドの田んぼの方にあった。
我々がしばらく滞在する事になったのは、ウブドのチャンプアンという地域だった。
コテージのような作りの宿に着くと、管理人のワヤンを紹介してもらった。
ワヤンは犬のような人の良さそうな顔をした、住み込みの管理人で若い青年だった。
我々を管理人のワヤンに紹介したところで、先生と迎えに来てくれた強面のおじさんたちはデンパサールへ戻って行った。
宿にはガブリーというデンマーク出身の女の子が先に長期滞在していた。
私はまだインドネシア語が覚束なかったので英語の堪能なガブリーとは英語でコミュニケーションを取っていた。
一緒に行っていたメンバーは私よりはインドネシア語がよく分かっていたので、ワヤンとインドネシア語でコミュニケーションを取っていた。ワヤンは英語が堪能だったが、バリ訛りの英語だったので私にはあまり聞き取る事が出来なかった。
ガブリーに我々がバリの舞踊や楽器を習いに来た事を話すと、ガブリーが習っている先生が丁度舞踊も楽器も出来る先生だという事で、翌日の練習を見せてもらえる事になった。
そうこうしているうちに夜になってお腹が空いたが、まだバリという地に慣れずびびっていた我々は、田んぼの真ん中の宿から5分ほどメイン通り方面に進んだ所にある小さな商店でパンらしき物を買って来てポソポソと食べ、深い眠りについたのだった。
バリに半年住んでいた時の話 プロローグ その4
絶不調で車に乗り込んだ私は、ガンガンに冷房の効いた車内で腹痛に耐えながら後部座席に大人しく座っていた。
車はトヨタのキジャン。
バリではちょっといい車に乗っているな、と思って見るとキジャンだったという事が多かった。
トヨタ、いすず、ヤマハ、ホンダ、見かける車やバイクはとにかく日本製ばかりだった。
当時、バリの人々はバイクがほとんどだったので車があるというだけでも結構なステータスだろう。
「先生、我々はこれからどこへ向かうのでしょう?」
「ここから車で1時間ほど北の山の街へ行くよ。そこに君たちがお世話になる宿を確保してもらってある。」
そう、留学先は決まっていたけど宿は決まっていなかった。
半年前に子供たちの演奏に心を揺さぶられてここまで来た。
今の所腹痛が酷くて外の景色も街の様子も全く頭に入って来ない。
かと言って、先生だけでなく初対面のこの怖そうな顔をした色の黒いおじさんたちに
「トイレに行きたいから下ろしてくれ」
とも言いづらい。
窓から見えるバイパス沿いのヤシの木や青い空で気を紛らわしながら30分ほど乗ったところで限界が来て訴えた。
「どうしてもお腹が痛いのですがトイレに寄っていただくことは出来ないでしょうか」
車で5分ほど進んだ所にあるマクドナルドへ寄ってもらう事になった。
マクドナルドは素晴らしい。
世界中どこにでもあるし、現地の特色あるメニューも採用はされているが基本的にハンバーガーとポテトとコーラは何処にでもある。
間一髪でトイレに駆け込んで、若干回復して車に乗り込んだところで怖い顔をしたおじさんの1人が気を遣ってソフトクリームを食べるか、と聞いてくれた。
優しさに少し感動したが、見せてくれる優しさの種類が日本人とは少し違うようだな、と思った。
その後も車内の冷房はずっと強いままだった。
バリに半年住んでいた時の話 プロローグ その3
ガムランに魅入られてからはのめり込むのも早かった。
それまで授業で教材としてボーッと見ていただけだったビデオも面白い。
先生が熱く語っていた謎の専門用語も面白い。
先生がふざけてやっていた(と思っていた)口頭伝承も真面目に聴けるようになった。
大学最後に、4人まで留学させてくれるご褒美的な制度が残っていた。
現地でガムランを習いたい私と、踊りを習いたい3人が希望して丁度4人。
成績が基準値以上に達していないと行けない事になっていたが、まずいと思っていた私も含めてみんな無事に合格。
現地のATMでお金をおろせると言われて作ったシティバンクのカード、念のため現地の地図が日本語で書いてある「地球の歩き方」、それからそれぞれスーツケース1つ分の荷物を持って、オープンチケットを持っていざ成田空港へ。
空港でそれぞれの家族や友人たちに見送られながら、出国ゲートをくぐる。
大人になってだいぶ経った今は、大した期間外国に行くわけでもないのに人にそそのかされてお寿司を食べて日本に別れを惜しんでみたりするけれど、学生の頃は全くそんな気持ちにならなかった。
学生だった我々はトランジットで寄ったシンガポールでもテンションが高く、少しでも現地のものに近い食べ物を食べたくて辛いものに挑戦してみたりした。
直行便なら7時間で着くところ、節約してトランジット便を選んだ為に14時間かけてングラライ空港へ。
またしても現地の人のような顔になった先生と、今度は現地で迎え入れてくれる学校の先生方が迎えに来てくれていた。
長時間のフライトでフラフラで辛いものを食べてお腹を壊した私は、絶不調のまま迎えの車に乗り込んだのだった。