バリに半年住んでいた時の話 その5
ワヤンに楽器の使用の可否を尋ねると、ゲストハウスの持ち主に聞いておいてくれるとのことだった。
ワヤンに我々がバリの伝統芸能を学びに来た事を伝えると、
「そうなんだ。自分はバリ人だけどガムランは出来ないよ。」
と言われた。バリ人なら誰でもガムランやバリ舞踊が出来るわけではないらしい。
興味もそんなになさそうだった。
ワヤンはこのゲストハウスに勤めている事もあり、外国人客への対応をせねばならないという事で語学の方に興味があるようだった。
英語はバリ人独特の癖が多少あったものの、我々よりも単語もよく知っていた。
インドネシア語が得意ではないガブリーともよく英語でコミュニケーションを取っていた。
ワヤンより楽器の持ち主に許可が取れた、と教えてもらった私は翌日のレッスンで早速パッ・グスティにレッスンの申し込みを行った。
これで学校が始まる前に少しでも楽器が学べるし・・・と少しホッとしていた。
バリに到着して1週間程経ったところだった。
・・・そう言えば、そろそろ両親に連絡しなくて大丈夫なのだろうか。
大丈夫な事はないよな。
携帯電話もなく、インターネット環境も整っていない。
最寄りにあるのは電話屋さんのみ。
3分で500円くらいしたような気がするが、とにかく電話をして無事だと伝えなければならない。
3分電話するお金で出来立ての食事が5食食べられると思うと何だか悔しいが、とにかく電話はせねばならない。
何せ、何も知らずに来てしまったのでバリの何処の街に滞在するのかも伝えていなかったのだ。
友人たちと交代で、木で出来た電話ボックスのようなブースに入る。
自宅にかけると、まずは無関心そうな父が出た。
「生きてたか。」
「うん、とりあえず元気です」
「母さんカンカンだから、とりあえず変わるよ」
「・・・あんた、1週間も連絡を寄越さないというのは一体どういう事なの」
「無事に着いたら連絡寄越すのが筋じゃないの」
「電話代が高くてあまり連絡出来ないなと思って。すみませんでした」
「分かりました。とりあえず無事着いたのね。定期的に連絡寄越しなさいね」
「はい、すみません」
1週間ぶりの会話はこのように終了した。
しつこく言い訳をするが、2000年頃というのは丁度インターネットが人々の間で普及してきた頃で、PCもパーソナルになるのはもう少し時間が掛かろうかという頃だった。
少なくとも、今の大学生のようにバイトしてまず欲しくなる、買いたくなるようなものではなかった。iphoneなんてなかった。Macは当時からお洒落だったけど、持ち運びには適さないブラウン管テレビのような形をしていた。ノートパソコンはちょっとした贅沢品だった。
インターネットは有線だったし、写真ファイルを送るのは至難の技だった。
論文なんかはフロッピーディスク(知ってる?)に保存していたのだ。
今海外に行ったら上記のような連絡が取れないトラブルは開発途上国の中でも限られたところでしか起きないのではないのかな、と思う。
少なくとも東南アジアでは起こらないのではないのだろうか・・・インドネシアではきっとないだろう、現地で働いている友人の様子からも断言出来る。
とにかく明日からはガムランに少し近づく事が出来るのだ。
当初思っていたのとは違う竹のガムランだけど、楽しみだ。